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2009年04月 アーカイブ

2009年04月02日

鍼灸(しんきゅう)

鍼灸(しんきゅう)とは、皮膚または筋膜などの体表部位に特定の刺激部位(古来経絡・経穴と呼ばれてきた)を選択し、鍼や灸を用いた刺激を与えることで、各種疾病に対し治療的な介入を行なう医療技術である。戦国から後漢(B.C.5世紀~A.D.3世紀)にかけての中国において成立した物理療法であり、近世まで東アジア各国で発展し、現在ではアジア各国は勿論、欧米でも広く活用されている。

中国を中心に東アジア各地で近代まで行なわれてきた医療の主流は、生薬を用いた「生薬方」と、物理療法である「鍼灸」である。診察手段が「体表観察」と「触診」のみしか無かった古代から近代にかけて、体表面からの病態診断法(「証」と呼ばれる病態の分類法)が発達し、それに対応する治療的技法として、生薬方と鍼灸を二本柱とする治療技法の体系が成立した。つまり鍼灸は東アジアにおける医療技法の片翼で、生薬方に対置するものである。

これら生薬方と鍼灸は、東アジア各国で地域に対応した発達をみたが、特に日本においては、江戸期に技法と技術体系の目覚しい発達が独自になされたことが知られる。すなわち、生薬方は「漢方」として日本独自のものとして発達し、鍼灸も「鍼管(ストロー状の外筒で中に細い鍼を入れるもの)」の発明による鍼の細径化とそれに伴う手技の変化と体系化が成し遂げられた。日本産の生薬方である「漢方」と、日本産の鍼管を用いた鍼灸を併せたものが、従来「東洋医学」と呼ばれ、第二次世界大戦後、共産中国において国策として成立した「中医学」と区別されてきた経緯がある。

日本においては、生薬方を用いる医師と鍼灸を用いる鍼灸医は、早い時代から分業化していた事が知られているが、分業が決定的になったのは江戸時代の盲人政策による。幕府の政策として「按摩」を盲人の専業として規定したところから、手技が連続する鍼灸も時を経ずして盲人の職業となっていった。これにより、日本においては、一般的な生薬を用いる医師(漢方医)と、盲人による鍼を用いる医師(鍼灸医)が医療の担い手となる。

盲人が鍼灸を担った歴史は世界の鍼灸を見渡しても例が無く、日本の鍼灸は非常に特異な経緯を辿ったものと言える。先述の鍼管の発明や、技法の独自発達も、これら視覚の不自由な術者が技法を担ったことにより為された側面が強く、江戸時代の盲人鍼灸医が果たした役割は非常に大きい。幕末から明治初期にかけての西欧医学の導入に際して、漢方医は比較的スムーズに西欧医に移行したが、鍼灸医については、当時の西欧医学には対応する技法も無いため医療職からは除外され、「盲人の職業保護」との名目で、慰安業としての、はり・きゆう・按摩の資格と盲学校が残された。しかし、実際には、明治天皇はじめ鍼灸に信頼を寄せる人々も多く、鍼灸は現実には戦前までの国民医療の一端を担ってきたのが実情である。

戦後、それまで営業鑑札であったはりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっている。

なお、医師法との整合性については、「あんまマッサージはりきゆうに関する法律」第一条により、鍼灸に関連する医療行為に関しては、医師法第19条の部分解除という形で認められている。

歴史 [編集]
ハンド パーム ドシア バンス ソルト オース サイバ レスト ソナー プラハ デイする 未来の喜び 足跡 せきりん シーツ 金乃竹 ブルーロー ダンエス サイエン パネル 風の華 ファイア レーション フレット リファレンス マルチーズ キールサエ ヤグルマ草 平核無柿 バイバイ オースチン はそく トウヒ ラスト フレーク ヒストリー デコル かおう 百の城 イヤー ケイブ ならたけ ワインリス ユーロス 沖の石 クイック たてじま なみがさね 汽車ポッポ モノローグ

中国 [編集]

古代~中古 [編集]
鍼灸の発生起源は詳しくは分かっていないが、春秋末から戦国時代には、「灸」はすでに用いられていたようで、「孟子」に灸治療に対する最古の記載がある。現存する医書として実際の鍼灸治療法が記載される最古のものとしては、馬王堆漢墓(前漢・B.C.168)出土の竹簡と帛書(はくしょ=絹に書かれたもの)に、「足臂十一脈灸経」「陰陽十一脈灸経甲本」「脈法」「陰陽脈死侯」「五十二病方」等と名付けられたものがあるが、これらは全て「灸」に基づいた治療法の書である。施灸点としての「経穴」や「経絡」という概念も登場しているが、これら経絡・経穴に対する「鍼」の適用法が確立したのは、後漢(~A.D.3世紀)の時代とされる。現在も活用される鍼灸の古典医書『黄帝内経(A.D.3世紀成立)』は、前述の出土医書群の直系とされているが、記述される内容は、完全に「鍼」が主体の体系にシフトしている。これは、前漢から後漢に至る2~3世紀の間に、本来「灸」による物理療法として生まれた治療技術体系が、「砭石」(へんせき=石のメスによる瀉血)療法等を包含し、より簡便な「鍼」による物理療法として発展したことを示すものと考えられている。「灸」で見出された体表面の治療に役立つ部位(経絡・経穴)は、「鍼」による刺激にも対応する事が発見され、発展を見たわけである。 その後「灸」療法が廃れたわけではなく、病態に対応した「灸」と「鍼」の使い分けがなされ、「鍼灸」として活用されて来た。『黄帝内経』の『素問』異法方宜論篇には、華北平野の北方より「灸」が、東方より「砭石」が、南方より「九鍼=鍼」が、西方より「生薬方」が起こり、中央の「導引(気功=按摩・ストレッチ)」と合わさって、当時の医療技術を形成した伝説が記されている。その後これら鍼灸技法は、陰陽五行思想と融合し、独特の治療体系を形成していく。

この時代の鍼灸を担った著明な医家としては、史記列伝に名を残す『難経』の著者扁鵲や、三国時代「魏志」に登場する華佗、『鍼灸甲乙経』を編纂した皇甫謐などが居る。

中世 [編集]
宋代から元代は鍼灸を含め医学分野の充実が見られるが、金元医学の中心は主に湯液によるもので、元の滑寿は『難経本義』の中で「難経などの古い鍼灸書を捨てて、新しい湯液に走るのは薮医者である」と諭している。


近代以降 [編集]
1822年、清王朝は宮廷医院内の鍼灸科の廃止を宣言するなど西洋医学の流入と共に伝統中国医学の衰退が始まる。中華民国時代、袁世凱は伝統中国医学を禁止しようとしたが強い反発に遭う。

現代 [編集]
中国共産党の時代に中医を正規の医学として認可するまで中医廃止派と中医派の対立が続いた。やがて正規の医学として認可すると、逆に冷戦時代にはアメリカ合衆国やソ連を中心とする西洋文明に対抗し、東洋文明の価値を宣伝するべく鍼灸治療をメディアに紹介した。

改革開放の波に乗って市場経済社会主義を標榜するようになってからは、中国国内での鍼灸への評価は多様化しているが、一方では一種の「頭脳流出」ともいえる現象も起きていて、優秀な中医や鍼灸師がより良い活動の場を中国国外に移住するケースもよく見受けられるようになった。

2009年04月17日

スコットランド問題によって両家

スコットランド問題によって両家の間には深刻な亀裂が生じた。フィリップ6世はローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世に対してギュイエンヌ領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、1337年10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。これが百年戦争の始まりである。

エドワード3世の遠征による勢力圏の拡張 [編集]

フランドルの反乱 [編集]
百年戦争にいたるまでのヴァロワ朝との関係悪化にともない、エドワード3世は1336年にフランスへの羊毛輸出の禁止に踏み切った。このため、材料をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は大きな打撃を受け、 1337年にはアルテベルデの指導によりヘント(ガン)で反乱が勃発、これにフランドル諸都市が追従し、反乱軍によってフランドル伯は追放され、1340年にフランドル都市連合はエドワード3世への忠誠を宣誓した。

1338年、イングランド王エドワード3世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地地方(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入した。何度か中世騎士道物語さながらに挑戦状を送り決戦を迫ったが、フランス王フィリップ6世は戦いを避け、低地諸侯も戦意が低かったため特に成果を挙げることができないままだった。
これに対してフランス王軍は直接対決を避け、海軍を派遣してイングランド沿岸部を攻撃、海上輸送路を断つ作戦をとった。両王軍は海峡の制海権をめぐり、1340年6月24日にエクリューズで激突、イングランド王軍はフランス王軍200隻の艦隊を破った(スロイスの海戦)。しかし、内陸部ではフランス王軍にたびたび敗北を喫し、両者とも決定的な勝利をつかめないまま、1340年9月25日、約2年間の休戦協定が結ばれた。休戦の最中、スコットランド王デイヴィッド2世が帰国したため、エドワード3世はスコットランド問題にも手を回さなければならなかった。

ブルターニュ継承戦争 [編集]
1341年、ジャン3世が亡くなるとブルターニュ公領の継承をめぐって、ジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャンと、姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌの間で争いが起きた。ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワがフィリップ6世の甥であったため、モンフォール伯はエドワード3世に忠誠を誓い、ナントを占拠してフランス王軍に対峙した。

フィリップ6世はシャルル・ド・ブロワを擁立するために軍を差し向けナントを攻略し、モンフォール伯を捕らえたが、モンフォール伯妃ジャンヌ・ドゥ・フランドルの徹底抗戦によってブルターニュの平定に時間がかかり、休戦協定の期限切れを迎えたエドワード3世の上陸を許した。このブルターニュ継承戦争は、1343年に教皇クレメンス6世の仲介によって休戦協定が結ばれたが、一連の戦闘によってイングランドはブルターニュに対しても前線を確保することができた。

フランス王軍の大敗
1346年7月、イングランド王軍はノルマンディーに上陸し、騎行を行った。このためフィリップ6世はクレシー近郊に軍を進め、8月26日、クレシーの戦いが勃発した。フランス王軍は数の上では優勢であったが、指揮系統は統一できておらず、戦術は規律のない騎馬突撃のみで、長弓を主力とし作戦行動を採るイングランド王軍の前に大敗北を喫した。

勢いづいたイングランド王軍は港町カレーを包囲戦の末に陥落させ、アキテーヌでは領土を拡大、ブルターニュではシャルル・ド・ブロワを、スコットランドではデイヴィッド2世を捕縛するなどの戦果を挙げた。クレシーの敗戦で痛手を被ったフィリップ6世はこれらに有効な手を打つことはできなかったが、フランドル伯ルイ・ド・マールがフランドルの反乱を平定し、フランドルについてはイングランドの影響力を排除することに成功した。

両者は1347年、教皇クレメンス6世の仲裁によって1355年までの休戦協定が結ぶが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。

1350年、フランス王フィリップ6世が死去、ジャン2世がフランス王に即位した。1354年、アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード3世はジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を求めた。しかし、ジャン2世はこれを一蹴、このためイングランド王軍は1355年9月に騎行を再開した。

1356年、エドワード黒太子率いるイングランド王軍は、アキテーヌ領ボルドーを出立し、ブルターニュからの出陣する友軍と合流して南部から騎行を行う予定であったが、フランス王軍の展開に脅かされ、急遽トゥールからボルドーへの撤退を試みた。しかし、ポワティエ近郊でフランス王軍の追撃に捉えられたため、黒太子エドワードはこれに応戦する決意を固めた。このポワティエの戦いは、イングランド王軍が明らかに劣勢だったが、フランス王軍はクレシーの戦いと同じ轍を踏み、またも大敗北を喫した。この敗戦でジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンに連行された。

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